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概念 #自己責任 #新自由主義 #統治性 #日本社会 #デュルケム 📚 自由と自己責任とワンピース

自己責任論:新自由主義、日本語の「自己責任」、統治性

自由な個人という理想が、社会的責任の放棄に変わる地点を読む

自己責任は二つの意味を持つ

自己責任という言葉には、少なくとも二つの意味がある。

一つ目は、成熟した主体としての責任である。自分で選び、自分で約束し、自分の行動が他人に与える影響を考える。これは自由な社会に不可欠だ。誰も自分の選択に責任を持たない社会では、信用も契約も共同体も成り立たない。

二つ目は、社会的支援を拒むための自己責任である。貧困も失業も病気も災害も、本人の努力不足や判断ミスに回収する。この意味の自己責任は、責任というより切断の言葉である。

問題は、この二つが同じ言葉で語られることだ。

新自由主義的な自己責任

PendenzaとLamattinaの論文は、新自由主義的な自由観を批判している。そこでは個人が、社会から切り離された自己責任的な市場プレイヤーとして想定される。

この個人は、自分を一つの企業のように管理する。能力を投資対象として磨き、失敗を自己改善の材料にし、人生全体を競争戦略として組み立てる。すると、自由は「選べること」ではなく「選んだ結果を一人で背負うこと」に縮む。

起業や独立にも、この罠がある。独立は確かに裁量を増やす。しかし、社会保障、取引先との力関係、景気、家庭責任、健康、地域格差まで本人の努力に還元すると、自由は過酷な自己管理になる。

日本語の「自己責任」

ドイツ日本研究所のLaura Bleckenによる研究紹介では、日本語の「自己責任」が現代日本社会のキーワードとして扱われている。戦地の人質、福島の避難者、不安定雇用の労働者など、多様な状況で「本人の責任」が割り当てられてきた。

ここで重要なのは、自己責任が単なる翻訳語ではなく、社会的な評価の言葉として機能している点だ。

「自分で選んだのだから仕方ない」という言い方は、選択の前提条件を消す。危険な地域に行った理由、避難できない事情、非正規雇用を選ばざるを得ない構造、家族や地域の制約。そうした背景を見ずに、最後の選択だけを切り出して責める。

統治性:命令せずに自己管理させる

フーコー以降の統治性論で重要なのは、現代の権力が必ずしも上から命令する形を取らないことだ。

人は「自由に選んでよい」と言われる。しかし、評価指標、ランキング、信用スコア、成果主義、自己啓発、キャリア市場によって、望ましい選択へ誘導される。命令されていないのに、自分で自分を監視し、最適化し、責めるようになる。

この構造では、自由と支配が分離しない。人は自由に選んでいるようで、選択肢そのものが制度によって設計されている。

デュルケム的な反論

PendenzaとLamattinaは、デュルケムを手がかりに別の責任論を提示する。

責任は、孤立した個人だけに置かれるものではない。個人は社会の中で形成され、社会は個人の自由を支える。したがって、責任も相互的である。個人は他者に責任を持つ。国家や制度も個人に責任を持つ。共同体は、失敗した個人をただ切り捨てるのではなく、再び参加できる条件を作る。

この見方では、自由は「社会から切り離されること」ではない。自由は、信頼・教育・医療・法・共同体の上に成り立つ。

One Piece的に読むなら

海に出る自由は、国や親や制度から離れる自由である。しかし船は、一人では動かない。航海には役割、信頼、分配、約束、相互扶助が要る。

自己責任を冷たい言葉としてではなく、仲間とルールを作る責任として読み替えること。ここに、自由と共同体を両立するヒントがある。

次に読む本・論文

  • Massimo Pendenza and Vanessa Lamattina, “Rethinking Self-Responsibility”
  • Laura Blecken, Selbstverantwortung in der japanischen Gesellschaft
  • Michel Foucault, The Birth of Biopolitics
  • Ulrich Beck, Risk Society
  • Luc Boltanski and Eve Chiapello, The New Spirit of Capitalism

関連ドキュメント

出典: Pendenza & Lamattina, Rethinking Self-Responsibility / DIJ, Understanding Self-responsibility in Japan / Foucault governmentality