病気の商品化:疾病モンガリングと不安の医療化
レイ・モイニハンの「Selling Sickness」に見る、製薬業界が「正常」の定義を操作して不安・疾患市場を創造する手法の解剖
疾病モンガリングとは何か
「疾病モンガリング(Disease Mongering)」とは、製薬業界・医師・患者団体が非公式な連合を形成し、疾病の定義を広げることで市場を拡大する手法だ。研究者レイ・モイニハン(「Selling Sickness:病気の販売」著者)が体系的に記述した。
核心的な構造:「正常の範囲」を狭めるほど、「治療が必要な人」が増える。
疾病モンガリングの手法:
- 正常な人間の経験を疾患として再定義する
- 症状の有病率を誇張して問題の大きさを印象づける
- リスクを疾患として扱う(「高コレステロール」など)
- 軽症患者に積極的な治療を推奨する
不安の医療化:社会不安障害の事例
社会不安障害(Social Anxiety Disorder)は典型的な事例だ。
「人前で話すのが怖い」「知らない人と話すのが苦手」——これは人口の大部分が経験する普通の緊張だ。しかし製薬会社グラクソ・スミスクラインはパキシル(パロキセチン)の適応拡大のために「社会不安障害」の啓発キャンペーンを展開した。
「20人に1人が社会不安障害を持つ」というメッセージを医師・メディア・患者に普及させ、普通の内気さを「治療が必要な疾患」として再フレーミングした。
パキシルの「社会不安障害」適応が承認されてから数年で、社会不安障害の診断数は劇的に増加した。疾患の発生率が上がったのではない——診断の定義と積極性が変わった。
恐怖マーケティングとしての健康広告
製薬業界の直接消費者向け広告(DTC: Direct-to-Consumer Advertising)——アメリカとニュージーランドでのみ合法——は恐怖訴求の極致だ。
「あなたはメランコリー型うつかもしれません。症状のリストを確認してください」——チェックリストは広く設計されており、多くの人が「当てはまる」と感じる。次のメッセージは「医師に相談してください」。
バーネイズの手法の医療版だ:「あなたは今すでに病気かもしれない」という恐怖で医師への受診行動を促す。
医師側にも動機がある。製薬会社から講演料・研究費・旅費を受け取る医師は、その薬剤を積極的に処方する傾向が示されている。利益相反が処方行動に影響を与える。
正常の「標準値」操作
コレステロール・血圧・血糖値の「正常値」が繰り返し引き下げられてきた。
2001年、米国の血中コレステロールガイドラインの改訂により「要治療」対象者が1360万人増加した。改訂に参加した専門家の多くが製薬会社との財政的関係を持っていた。
「新しい疾患」ではなく「基準値の変更」によって市場が拡大する——この手法は数値化可能な指標(血圧・血糖・BMI・骨密度)のすべてに適用できる。
精神医学DSMと定義の政治学
アメリカ精神医学会の診断マニュアル「DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)」の改訂も同様のダイナミクスを持つ。
DSM-III(1980年):265の診断 DSM-IV(1994年):365の診断 DSM-5(2013年):さらなる拡大
ひとつの批判的視点:正常な悲しみ(死別後の2週間以上の悲嘆)を「大うつ病」として診断できるという条項がDSM-5に残ったことへの批判がある。人間の普通の悲しみが「治療対象」になる。
DSMは医師・研究者が作成するが、その多くが製薬会社から資金提供を受けている。
不安の経済学
疾病モンガリングの最も収益性が高い標的は「不安」だ。
不安障害は最も広い疾患カテゴリのひとつだ。人口の15〜20%(定義によってはそれ以上)が診断基準を満たすとされる。
しかし問題がある:「正常な警戒状態」と「不安障害」の境界はどこにあるのか。
不安は進化的な適応反応だ(孤独の進化論:孤立は死刑宣告だった参照)。脅威に対して警戒することは生存の基本機能だ。現代の社会環境がその回路を過剰に刺激しているとき、問題は「不安回路」にあるのか「環境」にあるのか。
薬物治療は前者(不安回路)に介入する。後者(環境:SNSアルゴリズム・格差・孤立)への介入は製薬業界の市場にならない。
孤独の医療化という問い
近年、孤独を「医療的問題」として扱う動きがある。英国では孤独への処方として「社会的処方(Social Prescribing)」が制度化されている。医師が「コミュニティ活動への参加」を処方する。
一方の懸念:孤独が「個人の疾患」として医療化されると、社会構造的な原因(格差・都市化・SNS設計)への介入が「薬や療法で解決できる個人の問題」に矮小化される可能性がある。
バーネイズが紙コップを「衛生の問題」として個人化したように、孤独を「治療が必要な個人の疾患」として個人化することは、その構造的原因を不可視化するかもしれない。
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出典: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC1122833/